<地域振興の視点>
2001/02
 
■21世紀市
編集委員・日本経済新聞社 矢作 弘

 翻訳家の高見浩氏が『図書』(岩波書店)にスペインの田舎町パンプローナを訪ねた時のことを書いているのを読んだ。雄牛が群れをなして細い路地を走り抜け、その前を町の男たちが血相を変えて逃げ惑うあの夏祭りで有名なところだが、ヘミングウェイが『日はまた昇る』に祭の描写をしている。高見氏は祭の前日、小説の記述に従ってパンプローナの町中を歩き回るのだが、75年前にヘミングウェイが描いた情景がそのまま残っているのに驚嘆していた。そして『日はまた昇る』は、「パンプローナの町歩きの実用的なガイドブックたり得ている」と書いていた。

 似たような経験をしたことがある。バロックの奇才、カラヴァッジオを取材するのにイタリアの町を訪ね歩いたことがある。その時のローマでのことだが、カラヴァッジオについて書かれた史伝を頼りに市内を歩き回ったところ、彼が殺傷事件を起こした現場や、寄宿していたデル・モンテ枢機卿宅があった界隈などが、昔の街路名のまま残っている。建物も昔に近いたたずまい。サンタゴスティーノ聖堂にある有名な「ロレートの聖母」のモデルになったといわれ、「カラヴァッジオの女」と史伝が伝える宵待ち草が立っていたナボーナ広場などは、400年を経て彼女が客待ちをしていてもおかしくないという感じの街並みのまま残っている。

 西欧は石造建築ということもあるのだろうが、日本で同じような経験をすることはまれである。荷風の『断腸亭日乗』の世界を徘徊するのはもはや不可能だし、街区そのものが変わってしまっているに違いない。実際、高度経済成長の時代以降、まちの変化が激しい。

 小春日和の日の午後、東京の郊外都市、田無を自転車で走った。敗戦後のしばらく、小学校の低学年まで暮らしていた。当時は、雑木林があちらこちらに残っていて独歩の書いた『武蔵野』の面影があった。幼稚園に通うのに鬱蒼とした雑木林を通るのが恐ろしく、友達の手を握りしめて一目散に走り抜けたことを覚えている。夏になると、その雑木林にカブト虫を採りに行った。しかし、いまは、そんな風景はほとんどなくなってしまった。駅前商店街には大型商業ビルが建ち、ファーストフード店が並んでいる。老舗の呉服店も改装してしまった。どこかの町の私鉄駅前と、なにも変わらない。小学校の校庭の、葉を落とした桜の老木が入学式の日に満開だったことを思い出させてくれたが、それが唯一のセンチメンタルジャーニであった。

 所得倍増計画前の昭和30年代前半には、畑50%、宅地20%の北多摩郡田無町だった。のどかな田園都市だったのだが、その後、東京が急膨張し、郊外のスプロール開発が起きて昭和50年代前半までに畑20%、宅地60%と、土地利用状況は逆転してしまった。昭和42年(67年)に、田無市になった。

 その田無市が1月21日、保谷市と合併して西東京市になった。住民投票で最多得票だった新市名だが、素っ気ないというのか、つまらない名前だと、市民でもないのにお節介に考えた。最近、金沢市などが伝統の旧町名を復活しそれをまち起こしにつなげようという試みがなされているが、それは町名に土地の歴史や人々の思い入れが刻まれているからだ。それと対比して田無から『武蔵野』の風景が消え、さらに合併市の名前が「東京の西にあります」というまったく機能主義的なネイミングになってしまったのは残念である。

 武蔵野の扇状地にあって奥多摩の水が伏流してしまうので稲田がなかった。それで「田無」の地名が付いたのだが、かつては野菜、桑、麦畑、果樹園という土地柄だった。子どものころにも、その風景があった。1599年の北条家分権帳に「田無南沢」の表記が出てくるといわれるから、地名の歴史は古い。飲み水にも不便し、玉川上水から分水する田無用水の掘割工事が行われた。江戸期には尾張家の御鷹場になった。新宿から16km、青梅街道と所沢街道の分岐になる宿場として栄えたところだ。

 「そういう由緒正しい地名が消えて歴史も風土も感じさせない殺風景な名前になってしまうのはさみしい」と知人に愚痴を語ったところ、国立市の話を聞かされた。国立は、東京の郊外にあって駅前から続く緑豊かな街並みが美しいところ。そこの商店街も、個性的なショップがそろっていておもしろい。一橋大学などがあるので学園都市でもある。いまや「国立」という地名には、しゃれた郊外都市暮らしを連想させる響きがある。ところがその「国立」は、立川、国分寺両市の間にあることからのネイミングだったというのだ。だとすると、西東京という名前にも、いずれそんな魅力が生まれるのだろうか。

 西東京市は合併して人口18万人になる。財政収支は両市とも比較的に恵まれているが、財政規模が小さいために道路や公園などの都市インフラ整備が遅れがち。それが合併の動機になったといわれる。昨今の市町村合併推進論と軌を一にしている。しかし、「Small is beautiful」ということもある。地方行財政論的にも「大きいことは必ずしも行政の効率性を担保しない」という議論がある。結局、どういう高邁な地方自治の理想を掲げてまちづくりをするかにかかわる事柄なのだろうが、それならば新世紀の幕開けに誕生する新しい市なのだから、それにふさわしくネイミングも「21世紀市」とするぐらいの意気込みがあれば良かった。米国ロサンゼルスの郊外にはセンチュリーシティという地名があるから、それほどおかしな名前ではないだろうと思う。

 田無の耕地率は現在、18.1%。小松菜、ホウレン草、ブロッコリー、キャベツ、大根などの都市近郊型農業が続いている。寺院などや小公園などを除くと確かに都市の緑が少ないし、街路並木などの整備も遅れている。住宅地の陰で細々と続く農業が、残された貴重な緑になっている。同じ東京の郊外都市、日野は、都市近郊農業を重要な産業として評価し、学校給食や学校の授業との連携をはかるなどの施策を講じている。西東京も、生産緑地としての農地を大切にし、人口抑制的な都市行政を模索することを提起したい。喪失しかけた都市の記憶を継承するためにも。

(やはぎ・ひろし)


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